ローカライズとは、音写でも直訳でもない
私は、ローカライズが際立って秀逸な企業として、まず任天堂を挙げたい。
一例を出す。フシギバナが、アメリカで何という名前で呼ばれているか、ご存知だろうか。
答えは Venusaur(ヴィーナソー)だ。
ローカライズチームがこの名前にたどり着くまでに、道は大きく三つあったはずだ。
一つ目は、音をそのまま持っていく道。fushigibana と書く。楽だが、英語圏の子どもにとっては意味の分からない音の羅列でしかない。「フシギ」も「バナ」も、向こうの子には何のイメージも結ばない。届いていない。これを音写と呼ぶ。
二つ目は、意味をそのまま訳す道。フシギ=mysterious、バナ=flower。Mystery Flower とでもする。意味は通る。だが、どうだろう。あの草と毒をまとった、どっしり構えた最終進化形の風格が、一気に安っぽくなる。花屋の店先にありそうな名前になってしまう。意味は移ったのに、本質が死んでいる。これが直訳だ。
任天堂(正確には英語版のローカライズを手がけた人たち)が選んだのは、そのどちらでもない三つ目の道だった。Venus(金星、そして植物的な美と豊穣を思わせる響き)に、saur(恐竜・爬虫類を思わせる語尾)を接ぎ木した造語、Venusaur。英語ネイティブの子どもは、この名前を初めて見た瞬間に「植物っぽくて、重くて、強そうなやつだ」と直感で掴む。しかも語感がかっこいい。愛着すら湧く。
元の名前の音でも、意味の直訳でもない。本質を保存したまま、移植先の人間が直感で本質を掴めて、あまつさえ愛着まで持てる、まったく新しい名前として作り直す。これがローカライズだ。
最高のローカライズは、欠損を埋めるだけでなく、価値を足す
ローカライズの上手・下手を、欠損の少なさだけで測ると、話を見誤る。
日本向けローカライズの成功例として、ビジネスの世界で昔からよく引かれるのが、マクドナルドとディズニーランドだ。どちらもアメリカの商品をただ日本語に置き換えた店ではない、と語られる。照り焼きバーガーや月見バーガーは本国のメニューにはない。ディズニーランドにしても、日本人の礼儀や季節感や「もてなし」の感覚に合わせて、体験そのものが日本の文脈で組み直されている——というわけだ。
この二社がよく挙げられる理由は、たぶんここにある。最高のローカライズは、元の価値を欠損させずに運ぶだけでは終わらない。移植先の文脈でしか生まれない価値を、その上に足してくる。Venusaur が「元のフシギバナにはなかった、英語圏の子にとってのかっこよさ」を獲得したのと同じことだ。
運ぶだけなら音写か直訳でいい。ローカライズが仕事として面白いのは、運んだ先で新しい価値が生まれるからだ。
「言語」を、自然言語の外へ広げる
ここまでは自然言語中心、つまり普通の意味での「翻訳」の話だった。ここからスコープを広げる。
ローカライズの対象になる「言語」は、日本語や英語だけではない。技術や経営、人も、それぞれ固有の文法と語彙を持った言語である。そして、言語であるなら、ローカライズできる。
技術の例で考えてみる。あるアーキテクチャを、専門外の人に「これは semantic layer だ」とそのまま渡す。これはただの音写だ。相手にとっては意味の分からない記号でしかない。
では「意味の層だ」と直訳したらどうか。「ああ、意味をつける層なのね」と、表層だけが伝わって終わる直訳でしかない。本質——なぜその層が要るのか、それが入ると世界がどう変わるのか——は、こぼれ落ちて伝わっておらず、ローカライズできていない。
正解は、相手の理解の地図に合わせて、相手にとっての付加価値がつくように翻訳して渡すことだ。相手が経理の人なら経理の言葉で、エンジニアならエンジニアの言葉で、「これはあなたのこの困りごとを消すものだ」という形に作り直す。同じ semantic layer が、渡す相手ごとに違う Venusaur になる。これが技術のローカライズだ。
自然言語で成り立っていた音写・直訳・ローカライズの三項は、技術という別の言語でもそのまま成り立つ。だとしたら——次はいよいよ経営である。
経営情報は、ローカライズを待っている
経営管理という仕事が扱うのは、経営情報だ。財務の数字だけではない。非財務の指標も、ESGも、外部環境も、現場のナラティブも含む、広い意味での経営情報。これを、それを必要とする人へ届け意思決定や行動変容につなげるのが仕事である。
経営情報を正しく整理して、意思決定に変えるには、ローカライズがいる。
生の数字やデータをそのまま経営会議に投げ込んでも伝わらない。これは音写だ。かといって、雑に要約したりざっくり例えたりすると、本質が死ぬ。これは直訳だ。必要なのは、見た人が直感で本質を掴めて、あまつさえ「なるほど、これは面白い」と愛着すら持てる、第三の表現に作り替えること。経営情報を扱う仕事の本質は、この広義のローカライズにほかならない。
その手段はいくつもある。可視化、アナロジー、BI、データモデル、OLAP、AI。私はどれも使う。ただし、どれ一つとして唯一解ではないし、どれもが必ず情報の欠損を伴う。可視化はサマライズによって細部を捨てるし、アナロジーは本質の一点をくり抜いて見せる代わりに、別の論点では元の対象と矛盾する。BIもデータモデルも、設計した瞬間に見えなくなるものが出て、恣意がはいる懐疑まで含み始めると、結局原本(現場のExcel)を探りに行ってしまう。これはローカライズの敗北にほかならない。だからこそ、何が欠損するかを分かったうえで手段を選び、その欠損を補って余りある新しい価値を足す設計が要る。運ぶだけでなく、足す。
ここで正直に一つ、自分に矢印を向けておく。
この記事で私は、ローカライズという本質を伝えるために、ポケモンという具体例を一つ選んだ。これ自体がローカライズの一例だ。ローカライズという抽象概念を、多くの人が直感で掴めるポケモンの文脈へ移し替えた。そして本記事の骨子——経営管理は壮大なローカライズである——という主張そのものも、経営管理という対象をローカライズというアナロジーへ移し替えたものだ。つまりこの記事は、二重にローカライズしてできている。
ポケモンの話は、ローカライズという営みの個別具体を一つ挙げているだけにすぎない。そして「経営管理は壮大なローカライズだ」というアナロジーもまた、アナロジーである以上、必ず欠損を孕む。別の角度から突けば、経営管理とは噛み合わない部分がいくらでも出てくるはずだ。それを承知のうえで、それでも伝わるほうに賭けて、私はこの例を選んでいる。欠損を消すことはできない。選ぶことしかできない。
Venusaur を作れるのは、交点に立つネイティブだけ
では、この広義のローカライズは、誰にできるのか。
Venusaur は、日本語のネイティブだけでも、英語のネイティブだけでも作れない。フシギバナに込められた本質を正しく読み取れる日本語側の感覚と、英語圏の子どもが何をかっこいいと感じるかを知っている英語側の感覚、その両方を持った者だけが、あの造語にたどり着ける。片方の岸のネイティブしかいなければ、出てくるのは音写か直訳のどちらかで止まる。
経営情報のローカライズも同じだ。これを担えるのは、技術・経営・人という三つの言語の交点に立ち、それぞれのネイティブである者や組織である。
技術だけのネイティブは、正確だが伝わらない音写を作る。人や現場といった受け手がどう理解し、何に心を動かすかへの感覚を欠けば、そもそも誰にも届かない。
経営岸については、少し違う書き方をしたい。ここを「本質の死んだ直訳を作る」と言い切るのは、たぶん実態からずれている。むしろ経営管理は、一段めのローカライズをちゃんと成功させている。現場から上がってくる生のデータを、経営の言語へと見事に翻訳している。EBITDA、ROIC、PBR1倍割れ問題などなど。あれは現場の雑多な事実を、経営層や投資家が意思決定に使える形へ作り替えた、立派なローカライズの成果だ。
問題は、その先で翻訳が止まることにある。一段めのローカライズで生まれた経営の言語は、そのまま経営の言語で語られ続ける。二段めのローカライズ——そこから技術へ、現場へと訳し戻す作業が、なかなか起きない。理由はたぶん構造的なものだ。その情報を受け取るステークホルダーの多くが、経営言語のネイティブだから。ネイティブ同士で通じてしまう場所では、わざわざ別の岸の言葉に訳し直す必要が生まれない。こうして経営の言語は、技術岸にも現場(人)岸にもローカライズされないまま、経営岸の内側で閉じていく。
技術・経営・人という三つの言語は、きれいに排他的に切り分けられるわけではない。それでも、こう置いてみると欠損の在り処がはっきりする。一段めは訳せている。二段めが訳されていない。経営岸の言語で閉じた情報は、現場の人間からは理解できず、技術の人間もその言語には入っていけないから、技術言語に閉じた話しかできなくなる。三つの岸が、それぞれ自分の言語の中に閉じこもる。
だからこそ、三つの言語の交点に立ち、それぞれのネイティブである者が要る。片岸のネイティブだけでは、一段めのローカライズは成せても、二段めで止まる。三つの交点に立って初めて、どの岸にも届く Venusaur が作れる。
では、「経営管理」という言葉自体は、ローカライズされているか
ここまで、経営管理はローカライズだと論じてきた。最後に、その刃を主張そのものへ向けてみる。
そもそも「経営管理」という言葉自体が、まだローカライズされきっていないのではないか。
私見として書く。かつてこの領域の中心は財務会計、つまり過去に起きたことの記録だった。それがいつからか、これからの会社経営や、日々の意思決定・コスト管理に役立てるために管理会計が生まれ、気づけば未来の計画も、ESGも、外部環境も、非構造化データも扱うようになった。ここまで来ると過去の記録を指す「会計」という語では、明らかに狭い。そのはみ出した部分を包むために、ふんわりと生まれたのが「経営管理」という言葉だった——というのが、私の理解だ。
その流れで CPM や EPM といった語も出てきた。この記事でも、いっそ CPM という言葉を使おうかと迷った。だが、やめた。CPM も EPM も Performance、つまり業績に語感を引っ張られていて、非財務まで含むという含意がどうしても薄く感じられたからだ。
とどのつまり「経営管理」という語は、まだ揺れている。人によって指す範囲が違うし、しっくりくる訳語が定まっていない。だが——その揺れこそが、この仕事にまだきちんと名前がついていないことの証左なのではないか。
経営情報をローカライズしろと言うなら、まず「経営管理」という言葉そのものを定義し、ローカライズしないといけないのではないか。
その解は、この記事には書かない。というか書けない、というのが正直なところだ。理由は二つある。一つは、経営管理とは何かを定義して、それをすべての読者に向けてローカライズしてまわるインセンティブが、いまの私にはないこと。もう一つは、もっと正直ベースで、私自身が経営管理という言語のネイティブではないからだ。技術と経営と人の交点に立ちたいと書いておきながら、そのど真ん中の、経営管理や経営という言語のネイティブを名乗れるほど、私はまだこの言葉を流暢には話せていない。
だからこの問いは、私が答えを出して閉じるものではなく、こうして置いておくべきものだと思っている。名前のついていない仕事の、まだ誰のものでもない最前線に、球はまだ転がったままだ。
あとがき
少し裏話。
私が現職に入社したときからずっと一緒にやっている同僚が退職することになった。この記事は、彼への餞として書いたものでもある。
「経営管理」という仕事は、登り始めたとき何の山か分からなかった。名前はあるのに輪郭が曖昧で、地図もなく、頂上がどこにあるかも見えないままだった。この記事で書いたローカライズの話は、その山の途中で自分なりに整理した「ここまでの眺め」だ。
彼と一緒にその山に協力して登り、試行錯誤してきたからこの見え方になったと思っている。
まだ道半ばで、球は転がったままだ。でも、このタイミングでここまでの景色を一度言葉にしておきたかった。あとは各々の道で。健闘を祈る!



