ただ、ふと自分の過去のプロダクト一覧を眺めてみると、その多くがもう動いていない。イベントが終わると同時に役目を終えて、誰の日常にも残らなかった。あんなに夢中で作ったのに、なぜだろう。当時は「そういうものだ」と思っていたが、仕事で経営管理のシステムを作るようになってから、この「作ったのに残らない」現象が急に他人事ではなくなった。
で、最近ようやく言葉になってきた気がしている。
ものづくりには3つの段階がある。「1つのD」「2つのD」「4つのD」である。そして、かつての私の「作ってみた」は、だいたい1段目で終わっていた。

順に説明する。

補助線:mercari R4Dの「4つのD」

まず借りたい概念がある。メルカリの研究開発組織「mercari R4D」だ。
R4Dは、ResearchのRに4つのDを重ねた名前である。設計(Design)・開発(Development)・実装(Deployment)・破壊(Disruption)。世の中の研究開発組織の多くが「研究して終わり」になりがちな中、社会実装まで、ときには既存の概念を壊すところまでやり切る、という思想がそのまま組織名になっている。
断っておくと、R4Dはあくまで研究開発組織の話である。この記事ではそこに勝手にビジネスのスコープを混ぜて、特に後半の2つを「作ったものを社会実装するフェーズ」として読み替える。そのため3つ目のDも、R4DではDeployment(実装)だが、この記事では意味を広げてDelivery(届ける)と呼ぶことにする。以下はその私的な拡張版だ。

  • Design:何を、なぜ作るかを決める
  • Development:作る
  • Delivery:現場に届けて、実際に使われる状態にする
  • Disruption:それまでのやり方を壊して、置き換える

この4つを補助線にすると、ものづくりが3つの段階に切り分けられる。

1段目:「1つのD」

まず一番下の段。設計もなければ、届ける当てもない、ただ作る(Do)である。
面白そうな技術が出た、触ってみた、動いた、イベントで公開した、バズった。ここには4つのDがひとつも入っていない。あるのはDoだけだ。
そして、このDoを駆動しているのはナラティブである。「楽しそう」「今どきっぽい」「バズりそう」。ロジックではなく、物語が手を動かしている。だからこそ熱量が高いし、だからこそ楽しい。
誤解しないでほしいのだが、Doの熱量自体を否定する気はまったくない。私もこれまでDo駆動でものづくりをしてきたし、今でも思い立って週末にDoをやることもある。楽しいから。ただ、Doは工作であって、ものづくりのスタートラインですらない。Doのゴールテープは「動いた」に張られている。動いた瞬間にレースが終わるのだから、日常に残らないのは当たり前なのである。

かつての私は、Doを積み重ねていれば、いつか何か大きなものに届くと思っていた。でも違った。Doは何個積んでもDoなのである。これがアンチパターンの正体だと思う。

2段目:「2つのD」

次の段。要件を詰め、設計し、テストを書き、ちゃんと作る。DesignとDevelopmentである。
これはDoとはまったくの別物だ。プロセスを踏んだ設計と開発には再現性があるし、品質がある。プロの仕事である。ここを「作ってみたと同じでしょ」と括るのは乱暴すぎる。
ただし、である。
2つのDのゴールテープは「完成した」に張られている。
そして、ここで止まるエンジニアが本当に多い。美しく設計した。綺麗に実装した。テストも通った。完成。——で、それは誰の日常に配備されたのか? 誰の習慣を置き換えたのか? と聞くと、そこから先は「自分の責務ではない」という答えが返ってくる。
前半2つのDは、正直、難易度は高いが楽しい。正しい入力を与えれば思い通りの成果物が返ってくるし、バグは直せるし、アーキテクチャは作り直せる。正解があり、間違いは間違いだと証明できて、正論が通る、ロジカルな世界。技術力さえあれば自分の腕で100%コントロールできる世界だ。だからこそ、ここに閉じこもりたくなる気持ちは痛いほどわかる。

3段目:「4つのD」——そして後半2つは、別の戦いである

最後の段。DeliveryとDisruptionまで回し切る、4つのDである。
ここまで来て気づくのは、前半2つと後半2つは、同じ「D」の顔をしているくせに、まるで別の戦いだということだ。
相手が違うのである。
前半2つのDの相手はモノだ。コード、アーキテクチャ、データ。モノには感情がないし、昨日までのやり方に愛着もない。正しく作れば正しく動く。ロジカルな世界である。
後半2つのDの相手は、人と組織だ。人には感情があり、慣れ親しんだ手順があり、「今までのやり方を変えたくない」という強烈な現状維持バイアスがある。どれだけ数字で「爆速になります」と証明しても、人はロジックでは動かない。ナラティブな世界である。

現場に届けること(Delivery)も、既存の習慣の破壊(Disruption)も、立ちはだかる課題の大半は技術課題ではなく感情課題だ。だからこの段のソリューションは技術ではない。信頼であり、交渉であり、巻き込みであり、まとめて言えばプレゼンスである。
後ろ2つのDは、正しいだけでは1ミリも進まない。

ただし、勘違いしてはいけないのは、後半がナラティブだけの世界でもないことだ。正しくないものは、そもそも土俵に上がれない。ロジックは前提条件であり、そこから先の勝敗を分けるのがナラティブである。つまり後半2つのDは、ロジカルの土台の上にナラティブを重ねる、掛け算の戦いなのだ。

こうして3段を並べてみると、面白い対称が見えてくる。Doはナラティブだけ。2つのDはロジカルだけ。そして気づくのは、2つのDの修行は、Doのナラティブを一度殺すということだ。「楽しいから作る」は「要件だから作る」に置き換わる。プロになるとは、ある意味でそういうことだとも思う。だが4つのDは、ロジカル×ナラティブ。ものづくりはナラティブに始まり、ロジックの修行で一度それを失い、もう一度ナラティブに帰ってくる。ただし、帰ってきたナラティブは向きが違う。Doのナラティブは自分に向いていた。4つのDのナラティブは、他人に向いている。

綺麗なコードは衛生要因でしかない

だからこそ、はっきり区別しておきたいことがある。
綺麗なコードも、美しい設計も、それ自体は衛生要因(重要で必要だがそれそのものが価値創出源でないもの)でしかない。汚いコードはいずれプロダクトを殺すから、綺麗であることはもちろん大事だ。しかしそれは「欠けていたら失格」という意味で大事なのであって、綺麗さをいくら積み増しても、後ろ2つのDを進める推進力には1ミリも寄与しない。
前半2つのDでどれだけ美しい刀を鍛えても、それを戦場に届けず(not Delivery)、誰の盾も叩き割らない(not Disruption)なら、価値は1円も生まれていない。作って終わりは、4つのDの中で一番ロジカルで、一番おいしいところだけを味わう行為である。

念のため言うと、これは前半のDに強い職人への攻撃ではない。むしろ逆で、後半の2つに踏み込むエンジニアは希少だからこそ、やることで評価に直結する。実際、配備や習慣の置き換えまで手を伸ばすエンジニアは、私の観測範囲では経営サイドビジネスサイドとコラボレーションし始め単なるエンジニアとしてのスコープから拡大し、組織でも重宝されているように見える。
それでもやる人が少ないのは、能力の問題ではなく、線の引き方の問題だと思う。「そこはビジネスサイドの仕事だから」。この一言で、多くのエンジニアが後半2つのDを自分の職域の外に置いてしまう。もったいない話である。前半2つを極めた人は、そのモノの実力と限界を一番正確に語れる人であり、本来なら3段目の入り口に一番近い場所に立っている。なのに、自分で引いたその線一本で、入り口に背を向けてしまうのだ。

私の実践:天秤との戦い

偉そうに書いてきたが、例によってこれは私自身がいま一番苦しんでいるテーマである。
私のキャリアの最上位のポラリス(北極星)は、デファクトとなる新しい媒体を発明することだ。いまは自分の持っている技術と親和性が高く所属企業のナレッジも豊富ということで一番レバレッジが掛かる場所として、経営管理(CPM)の領域に的を絞っている。可視化のコアライブラリを作って、社内の案件に配備して、いずれ顧客へ、業界へ、という順路である。
前半2つのDは、現時点では見えている部分まで考慮してしっかりやり切った自負がある。モノとしての完成度には一定の自信がある。だが、順路の最初の一歩である「社内に根付かせる」ところからして、これが想像していたより何倍も長い戦いになっている。
現場で起きるのは、劇的な拒絶ではない。これはうちに限らず、この業界のどの現場でも起きている光景だと思うのだが、「いいですね」と言われて、次の案件ではやっぱり従来の非効率な方法で組まれている。それだけである。
最初は理解できなかった。でも現場の側に立ってみると、この選択には現場なりの合理がある。手作業が徒労であることは、本人たちが一番よく分かっている。それでも手作業は、いつ終わるか見通せるし、自分の腕で確実に終わらせられるという実感がある。一方、新しいやり方への乗り換えは、イニシャルコストが高いうえに、そのコストが本当に回収できるのかが未知だ。締切を抱えた現場は、「大きいけれど既知のコスト」と「小さいはずだが未知のコスト」を天秤にかけて、毎回、前者を選ぶ。これは怠慢でも感情論でもなく、現場なりのロジックなのである。
だから私が突破すべきは、機能の不足ではなく、この天秤のほうだ。相手には相手の合理があるから、正論をぶつけても崩れない。未知を既知に変える小さな実例を積み、信頼を積み、天秤の中身を少しずつ入れ替えていく——結局これは、ナラティブの仕事なのだ。結局道具は、作っただけでは価値創出の入り口にすら立てていない。

武器のナラティブと、燃料のナラティブ

最後に、余談として書き始めたのに、書いているうちに本筋と繋がってしまった話をする。この長い戦いの一番奥にある私のモチベーションは、意外なほど小さい。
私の妻が企業経理をやっているのだが、そんな妻のPCで、自分の作った媒体が動いているのを見たい。それを実現することが、今の自分の夢である。ということだ。

ロジカルに言えば、これは社会実装のひとつのベンチマークである。経理・FP&Aの実務のプロが、日々の業務の中で自然に使っている状態。身内だからこそ一切の忖度が効かない、私にとって一番厳しい届け先だ。
ただ、正直に白状すると、そんなロジカルな話は半分後付けで、実際はもっと単純である。生粋のジャンプっ子である私は漫画「バクマン。」に強く影響されて育った。「バクマン。」は、漫画家を目指す主人公と声優を目指すヒロインが、「彼の漫画がアニメ化されたら、彼女がそのヒロインの声を当てる」という共通の夢のために、それぞれの持ち場で切磋琢磨し続ける物語だ。私が媒体を磨き、経理のプロである妻が、いつかその媒体を自分の業務で走らせる。この光景を思い浮かべるたび、ジャンプで育った人間として、単純に奮い立ってしまう。分析でも構造化でもない、ただのナラティブである。

で、ここで論理を飛躍させたくなる。「後半のDはナラティブの戦いだ。私はナラティブなモチベーションを持っている。だから私はこの戦いに向いている」——と繋げたくなるのだが、これは繋がらない。自分を奮い立たせる物語を持っていることと、他人を動かす物語を紡げることは、まったく別の能力だ。ジャンプ脳で酔えるからといって、現場の天秤を動かせるわけではない。
では、この燃料は無意味なのかというと、そうでもないと思っている。前半2つのDは、作業そのものが報酬をくれる。書けば動くし、動けば嬉しい。モチベーションは仕事の中から勝手に湧いてくる。ところが後半2つのDは逆だ。フィードバックは遅く、曖昧で、「いいですね」の翌週には無音で行われる従来の非効率な方法が続いている現実が待っている。作業そのものは、ほとんど何も返してくれない。この戦場で数年単位の持久戦をやると覚悟を決めたとき、ロジックではなく初めてモチベーションそのものがボトルネックになる気がした。

つまり、こういうことだと思う。他人に向けたナラティブは、勝つための武器である。自分に向けたナラティブは、戦場に立ち続けるための燃料である。武器と燃料は別物で、片方を持っていても、もう片方が手に入るわけではない。ただ、長い戦いには両方が要る。そして燃料だけは、ロジックからは補給できない。
思えば、2つのDの修行で一度殺したはずの「楽しいから作る」が、燃料という別の役割を与えられて戻ってきたのだと思う。私の場合、その燃料がたまたまジャンプ脳だった。それだけの話である。
デファクト化という最大スケールの野望と、実在する一人に届けるという最小スケールの目標が、同じ一本の線の上に乗っている。だから、続けられている。

まとめ

  • 1つのD:ゴールは「動いた」。ナラティブだけで回る工作。何個積んでもただのDoである
  • 2つのD:ゴールは「完成した」。正解と正論が通るロジカルの世界。ここで止まるエンジニアが本当に多い
  • 4つのD:ゴールは「誰かの習慣が置き換わった」。相手はモノではなく人と組織。ロジックを入場券に、他人に向けたナラティブで勝負する掛け算の世界。綺麗なコードはその推進力にならない
  • そして武器とは別に、この持久戦には自分に向けたナラティブ(燃料)が要る。燃料は、ロジックからは補給できない


生成AIによって、Doのコストは限りなくゼロに近づいていく。作ること自体が誰にでもできるようになった世界で差がつくのは、綺麗に作る腕前ではなく、ナラティブな世界に踏み込んで後半2つのDをやり切る覚悟のほうだと思っている。

参考リンク