EMC2NARY

#共同体👥

人がどう集まり、支え合い、離れていくか。家族・地域・組織といった共同体のかたちと、そこに生きる個人をめぐる考察。


【自戒】私もいきなり開廷していた

前回、はてな匿名ダイアリーのある投稿を、人格ではなく構造として読み解いた。連絡頻度が落ちたという事実を「説明義務」に昇格させ、多くの無意識が積み上げた創発的な数字に「選んだ意図」を要求し、受理される答えの集合から「別に何もない」をあらかじめ抜いておく。この三つだけで、あの関係が前に進めなくなる理由は最後まで説明できてしまう。そういう話だった。 一人の読者としてあの投稿を読み、構造に落として記事にした。書き終えてしばらくして、ふと振り返った。この構造は、本当に増田だけのものだろうか。自分のなかに同じものはないだろうか。あった。それも二つ。ひとつは子どもに対して、もうひとつは妻に対して。 さらにもうひとつ気づいたことがある。前回「義務の昇格」と呼んだあの飛躍には、きちんとした名前があった。ヒュームのギロチンという。事実(is)から「べき(ought)」へ、断りもなく飛び移ることだ。この記事は、その名前を手がかりに自分自身を点検した、徹底的な自戒の記録である。

なぜなぜハラスメントの前段にある問題

はてな匿名ダイアリーのある投稿がXでバズった。ざっくり言えば「離婚してから、自分がずっと相手に『なぜ?』を突きつけ続けていたことに気づいた」という、当事者の後悔の告白である。共感が集まる一方で、批判は「なぜ?の反復は尋問であり、モラハラだ」という一点に集中していた。 私もこれについて短くツイートした。ただ、あそこで言いたかったことを140字ではうまく展開できなかったので、記事にまとめようと思う。 Xに寄せられた批判の大半は「なぜなぜと問い詰める」という手段を叩いている。だが私が引っかかったのは、手段そのものではなく、その手前——問いが放たれる前にすでに済んでしまっている前段のほうだった。 この記事は、その前段を分解する話だ。反復は症状にすぎない。病巣はもっと手前にある。特定の誰かの性格や資質に原因を求めなくても、フレームの構造だけで最後まで説明できてしまう——それが、この件について私が一番言いたいことでもある。

田舎の子育てはなぜしんどそうなのか

縁あって、地方に通う機会があります。 そこで見た子育ての風景が、自分の住む都会のそれとは、別の種類のしんどさを帯びて見えました。なぜしんどそうなのかを歴史と地理からたどると、一つの構造にたどり着きます。 田舎の子育ては、集団主義と個人主義の「悪いとこ取り」になっている。 両方の主義の負担だけを二重に背負い、両方の恩恵を取りこぼしている。この記事は、その仕組みを順に開いていく話です。 先に断っておくと、これは外から来た私が見つけた構造で、私自身はそこで子育てをしているわけではありません。私にとっては発見でも、そこで暮らす人にとっては、ただの生活です。だから解決策の話でも、「だから地方は」と切り捨てる話でもありません。