個人から見た会社の役割は?

2025年12月17日(水) 14時11分55秒 | 26 view |

財務はもちろんサステナビリティだとかESGだとか、社会が会社に対して求めている役割については様々なところで多分に言語化されていますが、それよりもっとミクロな視点で従業員として働いている個人が会社に対して求めている役割についてはあまり構造化されて語られていないなと思ったのでこの機会に考えてみることにしました。

はじめに(問題提起)

X(旧Twitter)を眺めていたところ、タイムラインに次のような言説が流れてきました。

「会社の役割は、報酬・経験・承認を得る場所。
それらは会社以外でも代替可能なのだから、会社への依存度を下げていくことが大事なのではないか」

なるほど、と思いました。
先行きの見えにくい情勢の中で、会社という単一の拠り所に人生を預けすぎないようにする、いわば「人生のポートフォリオ経営」を意識するという文脈では、私自身も過去に近いことをやっていた時期がありますし、この主張自体が間違っているとは思いません。
一方で、職を渡り歩いた末に現在は本業一本で働いている今の自分は、少し違った角度から「会社の役割」を見るようになっていました。
その違和感を整理した結果、以下のような内容をツイートしました。


冷静に考えてみると、会社は本来、従業員を成長させるために存在しているわけではありません。
多くの会社は、社会貢献や価値創出を行うために存在しています。
それを持続的に実現するために企業価値の向上が必要であり、
その結果として財務に跳ね返り、さらにその結果として、経験・報酬・承認が個人にもたらされる。
つまり、経験・報酬・承認は会社の役割そのものではなく、結果の結果として得られるアウトカムなのではないか。
この整理が、本記事の出発点です。

会社の役割をアウトカムと定義してしまう違和感

先ほどの言説では、

  • 会社の役割 = 報酬・経験・承認
  • それらは会社以外でも得られる
  • だから会社への依存度を下げるべき

という論理が組み立てられています。
この結論自体は一見もっともらしく、現代的でもあります。
しかし、少し立ち止まって考えてみると、そもそも「会社の役割」をアウトカムで定義してしまっていること自体に違和感を覚えました。
報酬・経験・承認は、確かに会社で得られるものです。しかしそれは「役割」なのでしょうか。

会社の本来の役割とは何か

私なりに整理した結論は、次のようなものです。
会社の本質的な役割は、

  • 社会との接点を「ロール(役割)」として用意すること
  • 個人をそのロールに配置すること
  • 企業が保有する経営資源(ヒト・モノ・カネ・情報)を個人に預け、レバレッジをかけること

この3点に集約されるのではないか、というものです。
社会と直接つながり、価値を提供するための「場」や「責任ある立場」を、個人単位で用意するのは非常にコストがかかります。
また、個人が単独で活動しても、活動量1に対してレバレッジがかかることはほとんどありません。
会社はその制約を突破するための装置です。
その結果として、

  • 成果が出る
  • 企業価値が上がる
  • 財務に跳ね返る
  • 経験・報酬・承認が得られる

という流れが生まれる。
この順序を取り違え、「アウトカム=役割」としてしまうと、議論はかなり違った方向に進んでしまいます。

アウトカムを役割と定義したときに起きること

もし会社の役割を「報酬・経験・承認の提供」と定義すると、どうなるでしょうか。
確かにこれらは、

  • 副業
  • コミュニティ活動
  • 個人事業
  • SNS発信

など、会社以外でも代替可能なものになります。
すると自然に、

それなら会社にそこまで依存する必要はない
会社は数ある選択肢の一つにすぎない

という結論に至ります。
この結論自体が間違っているというより、前提の置き方によって必然的に導かれた結論だと言ったほうが正確でしょう。

アウトカム中心の構造が正当な世界

では、「アウトカムを役割とみなす構造」は、完全に誤りなのでしょうか。
そうではありません。
この構造が正当に成立する代表的な制度があります。それが学校です。
学校では、

  • 出資者:家庭(個人)
  • サービス提供者:学校
  • 受益者:生徒

という構造になっています。
学校の役割は、教育というアウトカムを提供することです。
生徒の成果(進学実績など)が学校の評価(偏差値や倍率など)に結びつくことがあるため、一見、生徒は成果責任を負っているように見えます。
しかし、従業員と企業の成果責任・経営責任のように直接的な関係ではなく、あくまで間接的なつながりであり、生徒は学校の経営に直接的な責任を負うわけではありません。
そのため学校では、

  • 「教え方が悪い」
  • 「環境が悪い」
  • 「もっと良い教育を提供すべき」

といった主張が、構造的に正当になります。

学校モデルを会社に持ち込むと何が起きるか

問題が起きるのは、この学校モデルを無意識のまま会社に持ち込んだときです。
学校では合理的だった振る舞いが、会社では機能しません。

  • 「育ててくれない会社が悪い」
  • 「評価してくれない会社が悪い」
  • 「機会を与えられないのは環境のせい」

これらは人格の問題ではなく、制度モデルの誤転用だと考えています。
会社はアウトカム提供者ではなく、投資主体です。
ここを取り違えると、どうしても摩擦が生じます。

親と会社が似て見える理由

むしろ会社は学校ではなく親と構造が似ているように見えます。
親と会社は一見まったく別の存在ですが、少なくとも以下の点で構造が似ています。

  • 初期はローリターンでも投資される
  • バリューに応じて投資額や裁量が変わる
  • 子や社員の振る舞いが、家庭や組織の評価に跳ね返る

親の教育費や体験費は家庭資源であり、会社の人件費や設備費は経営資源です。
どちらも有限な資源を期待値に基づいて配分しており、個人の結果が組織の結果に跳ね返ってくる関係も構造的に一致しています。

それでも親と会社は同一ではない

もちろん、親と会社が完全に同じというわけではありません。
最大の違いは、選べる/選ばれる関係であるかどうかです。
親子関係は不可逆で情緒的ですが、
会社との関係は契約的で可逆です。
ただし、

  • 交渉
  • 責任分離
  • 期待値調整

といった構造自体は、親子関係でも暗黙に成立しています。
違いは構造そのものではなく、制度化・明文化の度合いにあると考えています。

関係性は再生産されるのでは?

ここまで整理すると、一つの仮説が自然に浮かびます。

親や学校など、さまざまな他者に対して、過去にどのような「期待と責任の関係性」に慣れてきたかが、会社との向き合い方に影響する可能性があるのではないか?

これは断定ではなく、あくまで「構造的に生じやすい傾向なのではないか」という域を出ない仮説ですが、構造を読み解いて期待値と責務分離、価値創出をやっていく能力が会社で活躍するうえで大きなポイントではありそうです。

自責/他責論を構造で読み替える

合わせて、昨今「自責が大事」「他責はダメ」という言説をよく見かけますが、これも環境依存の話だと理解しました。
つまり、自責・他責は性格や道徳の問題ではなく、どの制度モデルで社会化されたかの問題だと言えます。

  • 学校では他責が合理的(例:「学校の教え方が悪い」は成立する)
  • 会社では自責が合理的(例:「会社の教え方が悪い」は成立しにくい)

構造が違えば合理的な振る舞いも変わるため、ただ自責OK・他責NGのような2値ではなく、環境に応じて自責/他責の取り方が選択できる、より一段深い理解になるのではないでしょうか。

結論:

会社の役割は、報酬・経験・承認を配ることではなく、

  • 社会との接点としてのロールを用意し
  • 個人をそこに配置し
  • 経営資源でレバレッジをかけること

だと考えました。
経験・報酬・承認は、あくまでその結果の結果として得られるものです。
個人から見た会社の捉え方はこれ以外にもありうると思います。
ただ少なくとも「会社≒学校」という前提や、アウトカムが目的化したまま議論してしまうことは、結果として多くの誤解や摩擦、機会損失につながってしまう恐れがある。
だからこそ、自分の置かれた環境を構造で捉え、正しく活用し、価値創出を行うことが最も重要なのではないか、と結論づけました。